昭和44年06月12日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
理解申して聞かせ末々まで繁盛いたす事、今日はここのところをひとつまぁ頂きたいと思います。この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授けと、願う氏子におかげを授けおかげを頂くと言うことですね。おかげを頂くということ。私ここんところが、ここまでで終わっておると言うような人が多いのですよね。信心しておかげを受けるというところまで、だから理解申して聞かせ末々まで繁盛いたす事ね。良く御理解を頂いて末々までも繁盛する事。
しかもその繁盛が、氏子ありての神神ありての氏子と。いうならばそれからのおかげが、神様も喜んで下さり私共も勿論、いわゆる神様と氏子とが一緒に栄えていこうと言う様な道をですね、頂いていきそういう道を付けていかなければならん。いわゆる上下立つようになっていかなければならん。ところがそういうところになって行く信者氏子というものが、非常に少ないということですね。おかげを受けたという信者氏子は、どのくらいあるか分かりません。けれどもその理解申して聞かせとこう仰るその理解。
その御教えを頂いて、末々までも繁盛すると言う様な事になっていない。神も氏子も一緒に助かって行くと言った様な、信心共栄の道は開けていないということなんです。ですからここんところが一番、いうならば大事なところであり、難しいところであるとこう思います。勿論この御理解三節は、まぁ大変なご理解ですよね。これはもう金光教でなからなければとても説きえない。そこでその御理解第三節の、天地金乃神と申すことはと、いうところをですね。金光教の信心とはといわゆる御道の信心とはと。
また教祖生神金光大神とはという風に頂くと、段々分かりやすいと思いますね。天地金乃神と申す事はいわゆる生神金光大神とは、どういうことを私共に教えて下さったかというところです。ここはもう一番大事なところですから、そこんところの説明は何時も致したおりますけれども、ま少しそこんところを頂きますとですたいね。天地の間に氏子おっておかげを知らずと。天地の中に私共が天地のお恵み恩恵に浴して、私共は生きておるんだということですね。そのわけを知らず。
この辺が大事なところ。天地の生かさにゃおかん生かさにゃやまんという、そういう働きの中におかげで、お生かしのおかげを頂いておりながらですよ、その訳を知らずですよ、神仏の宮寺氏子の家屋敷、みな神の地所である訳も知らずに、そこに日柄方角日柄方位ばかり見たり、それ自分のもののように思うたり、そう言う事が無礼になり前々の巡り合わせ、めぐりという言葉を沢山使われますが、このう教典の中でも巡りという言葉を使っておられるのはここだけです。巡り合わせで難を受けおると仰るところ。
どういうことが巡りになっておるかということを、ここには言うておられると思いますね。ここには氏子の宮寺、氏子の家屋敷とこう仰っておられるが、なべて全てがです。天地の親神様のお働きによるものであり、天地の親神様の御物であるということなんですよ。だからその訳が分かったらですね、それこそ指一本で押すだけでも、天地の中に日柄とか方位とかと言う様な事を、言う様な事の無いことが分かるんです。だからいうならばここんところはですね、私共人間がですね。
今まで見当違いの生活、見当違いの生き方ばかりをしてきた事が、前々の巡りで難を受けおりという事になるのですよ。見当違いも見当違い。神様のものを自分のもんと思うとる事が見当違いでしょうが。天地の親神様のおかげを頂かなければ、立ち行かないのにもかかわらずです、今日はよい日の悪い日のと。方位を見たりするということは、いよいよ神様をないがしろにした考え方ですよね。もう見当違いも甚だしい。だから金光様のご信心はね、ここんところを本当にすっきり分からんとです。
本当の金光教の信心の有難さというものは分からんのですよ。そらそうじゃろばってん昔から言うてある事だけは守らなてんち言いよったっちゃ、金光様の信心は絶対分からんとです。もうそれこそ初めて、金光大神をして初めて説きえられたところである。分かりえられたところを、こういう風に表現してあるところですね。そこでやはり金光大神、天地金乃神と申すことはというところを、金光大神とはとか御道の信心、御道の他の道では説き得ないところですここは。
だから金光大神は、または金光教の信心、御道の信心というのは、どういう事を説かれ教えられたかという事を、ここんところでよくひとつ腹入れしておいてです。ははぁそう言う様な詰まらん事がです、めぐりがめぐりを積んで行き、御無礼が御無礼を積んでいって、めぐりになって難儀の元をそういう風にして作っておるんだと。天地に対する御無礼が、そういう事になっておるんだと。人のものを盗ったとか人殺しをしたとかと。勿論大変ないけない事ですけれども。
そう言う様な事は大変な大きなめぐりにはならんと、私は思うですね例えばここんところから言うと。そこんところを例えば詫びれば許して貰えれるような感じがするんですよ。つい貪欲が出てきたものを盗りましたと。これから盗りませんからどうぞといや、私は言うなら許される感じが致します。だから本当にめぐりを作るという事はですね。皆さんここはようくひとつ分かってもらわんならんと思うんですけども、めぐりを積んでいくということは、天地に対する御無礼。天地をないがしろにする考え方。
いうならばもう見当違いも甚だしい考え方、それがめぐりをつんでいくのぞと言う事なんですよ。ここんところはもう私は恐らく合楽でまた、合楽でなからなければ説きえない所だと思うですから、特に皆さんよう分かっとかないかんとこですよ。そこが分からんとですよね。例えば日頃私が申しますように、成り行きを大事にすると言った様な事やらが、生きてこないんですよ。例えば御事柄を大事にすると。御物を大事にするとか。神様の御物として一切のものを大事にするとか。
様々な事情事柄と言った様なものを、神様の御事柄として、それを頂いていくということが、生き生きとしてこないです、ここんとこが分かっとかんと。日柄方位ばかり見てということは、いわゆる見当違いばかりしてということであって、前々のめぐりそう言う様な積み重ねがめぐりになり、難儀の元を作っておると。だからそういう大事な事大変なことをです。この度生神金光大神を差し向けてです、先ず願う氏子におかげを授けんと、神を神と分からんから、先ず願うて来るものには神のおかげを見せてね。
いわば神の権威にかけてでも、おかげを見せると仰るようなおかげを先ず頂いて、それからおもむろに理解申して聞かせると仰っておられます。ですから実を言うたら最後のところの、上下立つようにいたすとかね。いわゆる、末々までも繁盛いたすこととか。氏子ありての神、ありての氏子、上下立つようにいたすとかと言った様な事。こういう素晴らしい、金光教じゃなければ頂けないほどしの、おかげを打ち立てるということはです。今の、前のところが分かっておかなければ行かんわけですよね。
いわゆる信心共栄の道をたどらせて頂くということは、ここの理解申して聞かせて下さるのだから、その理解を理解しなければです、お話を本当に分からなければです、自分のものにしなければ繁盛いたすことにも、上下立つようになるという事にもなって来ないというのですから。そこで毎朝こうやって、ほんなら御理解を頂いておるというだけではいけないという事ですね。理解を申して聞かせてあるけれども、理解を理解しよらん。その話を自分のものにしよらん。
そこで今日は取り分けここんところをですね、理解申して聞かせというところを、ここからをひとつ大概お話を頂きよるごたるばってん、どうしておかげ頂かんじゃろかという向きもありますから、この頂き方この姿勢がね。ちょっと狂っておるのじゃないか、間違っていないかという事をですね、ひとつ聞いて頂きたいんですね。御理解四節にもございますように、金光大神あって神は世に出たのであるから、神からも氏子からも双方両方からの恩人は、此方生神金光大神だと言う風に天地の親神様は言うておられますよ。
ですから、私が一番初めに申しましたように、天地金乃神と申すことはというところを、金光大神とはとでも良いし、または金光教の信心とはとでも良いし、という事になるでしょうが。此方金光大神は信者からも人間氏子からも、天地の親神様からも、双方からの恩人とまで言うておられます。だからもうまさかの時には天地金乃神というには及ばん、金光大神助けてくれといえば、助けてやるとまでいわゆる天地の親神様からのご信任を受けておられるわけですよ。
ですから金光大神が理解申して下さることは、そのまま天地の親神様が、言うて聞かせて下さる事であると言う事になる訳です。御理解いや御教えね、その御教えは教えを鏡にと言った様な事を申しますね。教えを教えの鏡を前に立てると自分の姿が分かるとこういう。ところがそのなかなか分からん。これはね光を背にしておるからです。真っ暗いところで鏡を見ておるからです。光の方へ明るい方へ自分の身体を寄せて御覧なさい。はっきり自分の姿が分かる。
ですからねおかげ頂かんならんから、お話を頂きよるということではね、その教えは鏡にはならんのですよ。ただ自分の我情我欲だけが写るだけです前に。はぁこうありたいあぁもして頂きたいという事だけで、もう頭がいっぱいなんです。いわゆるおかげの方からですね信心に向きを変えるというか、信心とはわが心が神に向かうのを信心と仰るのですから、私共の心がですね、神様の方へ向いとらなければいかん。ということはね私共の心がね、信心の方へ心が向いておらなければいけない。
その信心そのものが光なのだと。私は今日初めて分かったことはね、教えは光じゃないという事です。まぁ言うなら鏡じゃないということですよ。だから私共がですね、そのうそれが神になるのぞとか。此の方ばかりが生神金光大神じゃない、皆んなもそのようなおかげを受けられるとかと仰っておられる、そういうその神になるとかね。自分の心が神様へ一歩一歩近付いて行くとか。生神金光大神を目指しておる、そのそこんところに置かにゃいかん。ですからどういう事かと言うとですね。
光は私は今日は、金光大神と思うですね。光は私は今日は金光大神とおもうですね。光は金光大神。だから金光大神の方へ向かっておるから、その金光大神の光がです、鏡を明るくしてくれるから、自分の姿が分かるのですよ。これ皆さんここんところは本気でひとつ体験してみて下さいよ。ただ教えだけを見とったっちゃ自分の姿はいっちょん見っかりよらんですよ。それはおかげのほうばっかり向いとってもですね、自分の姿は本当に気付かんです、分からんです。
けども自分の心が信心に向かっておる。神様に向かっておる。金光大神のあられ方とこういう事を申しますね。金光大神の生きられ方を、私共の行き方としてと言う風に、言う様な事を言われますが、金光大神の生きられ方にですね、私共のいわば向きが焦点が変えられますとですね。はぁ金光大神ならばこんな場合こういう時に、という事になって来る訳です。金光大神の方へ自分の心が神の方へ向かっておりますとです、この教えの鏡にですね。言うならばありありと自分の姿が写ってくるです。
はぁこれじゃおかげの受けられんはずだと、言う様な姿がありあり写って来る訳ですね。私共はただ教えだけをこう。そしてその教えの前のおかげという、それで真っ暗になって教えの鏡、立てておるつもりだけれども、自分の姿が映じておらんところに、信心は日々の改まりが大事と仰ったり、本心の玉を磨くものぞやと仰っても、研きが出来よらんのであり本心の玉。いうならば神様の御事柄として、または神様の御物として映じていないわけなんです。
明日十三日、十三日会ですよね。神様の願いがいわば成就する日として、なら合楽では大事に致します。先日何の会合だったか壮年会の時だったでしょうか。本当にこの十三日会と言う十三日という日をですね。もっともっと本当の意味での十三日会にしなければいけないと、神様の願いが成就される事の為に、ひとつ十三日を合楽の信奉者の全部がですね、そこの認識を深めて行く様な運動を起そうじゃないかと言う様な事を、信徒会長がその事を言うております。ただ十三日会に出席する。
十三日会のまぁお供えならお供えしておる人達だぁけの、十三日会と言った様なものじゃなくてです、十三日会十三日という日は、もう本当に日頃私共の願いばかりを、こうさせて頂いておるから、十三日こそは神様の願いに応えさせてもらおうという日にというのですから、こりゃ合楽の信奉者全部が、その気にならなければいけないという運動を起そうじゃないかと、言う様な話し合いが先日あっておりました。私はそれを聞かせて頂いて確かにそうだと。
そこの認識をもっと深めていかなければいけないなぁと、そしてそこから分からせて頂くもの。ただ自分の我情我欲だけをどうぞお願いします、お願いしますだけで一生懸命参るだけではなくて、今日はもう私を空しゅうして、自分というものをいよいよ我情我欲を捨てて、今日という今日はもう一日家族を挙げて、神様の心に添う一日であるようにということの願いを、願いとして十三日会に集おうじゃないかと。そんなら一時からなら一時からの、十三日会の共励会だけではなくてです。
十三日会という日を朝からお弁当持ちで、本気でお広前の御用をさせて貰おうじゃないかと。第一外掃そしてみっちり十二時なら十二時まで御用頂いて、一時間なら一時間という昼食の時間を頂いて、一時からきちっとその共励をすると言った様な風な働きかけというものを、皆にしようじゃないかと。そういう話し合いがあった。私それを聞いて確かにそうだなと。合楽の信奉者全部がですね、そういう事になってきたらどういう事になって来るだろうかと。
いわゆる今日の御理解三節なんかが、本当に分かって来るという気が致します。理解申して聞かせ、理解がこちらのものになって来るです。せめて一日だけでも。如何に自分中心の行き方かということよりも、神様中心の行き方の方が有り難いものか、またその有り難いものには、どういう事の結果が寄り添うて来るかという事をです。ひとつ身を持って体験させて頂こう。とてもとても十三日会だけは行かにゃ馬鹿らしかというごたるふうな雰囲気を、ひとつおかげ頂こうじゃないかというわけなんですよ。
皆さんその気になって下さらなきゃいけませんよ。いわゆる神様の願いが成就する事の為に、例えば十三日という一日を奉仕の一日とすると言う訳です。同時に奉仕だけではなくていよいよ親の心を心として、神様の心を心としてその心を自分達に頂くためには、どういう信心のあり方にならせて頂いたらよいかと言う様なですね、信心共励をしようというのです。いよいよこれが本当の事になってきた時に、私は合楽の信奉者の皆さんが、いよいよ偉大なおかげに。
偉大なおかげのいわゆる限りのないおかげにですね、本当のおかげというかね。そういうおかげとはこういう事から、こういう信心から生まれて来るものだという事を、もう身をもって体験される。そのう有難い機会になるのではないかと言う風に思います。十三日というのがね。そういう風に自分というものをですね、一遍空しゅう致しましてから、そこから神に向かうという姿勢です。本気で生神様を目指しての信心です。生神とは勿論ここに神が生まれるという事であってと仰るように。
自分の心の中に本当に信心の喜びと言うものが生まれた時に、そこに生神の誕生があるのでねす。信心とはこの様にも有難いものであるという、その有り難いという心が生神の誕生であり、その喜びが育てられて行くというところに、神に向こうていくという信心がある訳なんです。だからそのそういう事になって参りますと、理解申して聞かせて下さってもですよ。本当の事を教えて下さってもです。その本当の事が本当の事として耳に入らん。自分の血肉になっていかん。
いわゆる末々までも繁盛致す事と言う様な、本当の繁盛の元にはならない。願う氏子におかげを授けというおかげを頂いただけでは、そらその場限りのようなものだと。末々親にかかり子にかかりと言った様な事にも、氏子ありての神神ありての氏子と、ここで言っておられますが、私共がです神様あっての私共。神様あっての氏子と言う様な、有り難い境地というものは開けてこない。いやぁ神様あって私共でございますと言った様な生き方になって来ない。そこからです上下立つような、いわばおかげが頂かれる。
どうでしょうか。私共はその十三日会の精神というものを本当に把握して、もう四六時中が十三日会の精神でです、おかげを頂かせて頂く事になったらいよいよ神様のお喜び、神様のいわば願いが成就していく事であろう。同時に私共の願いが願い以上に成就していく事になって来るだろうと私は信じます。今日は御理解三節からねその様な事をまぁひとつ頂いて、第一天地金乃神と申す事はという事を、大変いろいろに説かれて難しいですけども、金光大神様というお方はどういう事を私共に教えて下さった方かと。
金光教の信心とはどういう信心かと。いわゆる私共の天地に対するところの御無礼、言うならば、その互い違いになる元、難儀の元が、私共の見当違いの生活という事に、今日はそこをもう一遍説明致しましたですね。いわゆる見当違いのその生き方を、まともな生き方に正して下さる。そういう事をこの度生神金光大神を差し向けて下さって教えて下さる。それで教えて下さるけれども私共がその教えをです、頂いておるけれどもそれが自分のものにならんという事は、私共の心が神に向かっていない。
光に向かってはいない。そして自分の心のいわゆる心が、神に向かって進んで行くというところからですね。信、光、信は光なりと言った様な事を言った人がありますが、確かにそうです。自分の心の中に信ずる心。いよいよ自分の心の中に光が頂けるようになりますとです、もう自ずと教えという鏡がはっきり自分というものを映し出してくれるようになる。自分の心に光がないから、いくら鏡をいわゆる我情我欲でいっぱいであるから、幾ら教えを頂いても分からん。自分の姿すらが分からん。
皆さん例えば鏡台なら鏡台の前に立って、真っ暗いところに立ったっちゃ、写らんでしょうが。その上に電気なら電気がぱっと点いて初めて、その自分の姿がはっきり分るのである。それを今日私は神手の方とこう申しましたよね。神の方神の方へ向く。神の方へは、も、光はいつもあっておるのです神の光というのは。信心というのは。言うなら金光大神の生きられ方と言った様な方へ、自分の方向が向いておりますとです、金光大神の光が、神のほうからパーッとこの鏡に映るのです。
だから自分の生き姿というのが直ぐ分かるのです。そういう信心をさせて頂いてその光そのものが、自分のものになって来る様になると真正面から、その教えにその光が当たるようになるから、いよいよ信心は日々の改まりが第一だと。信心とは本質の玉を研くものぞやと仰る。どこを研いてよいやらすらが分からぬのが、お互いの姿です。ほんならどこば改まったなら良かじゃろかといって、改まるとこすら分かっていない。もう私昨夜の御理解の中にも申しましたんですけれども。
私は夕方あの夕方じゃない、夕食を必ず今あのう茶の間の外で頂くんですよ。あの泉水の前で。だから頂きまして頂き終わったら、鯉に餌をやってそしてあのう泉水のところだけの私が草を取るんです。毎日生えてるです。もう朝鮮芝の中にですね、小さい草がもう必ず生えてる。それを私は小さいのでも必ずそれを、こういっちょいっちょ引き抜いて取るんです。まあぁろくそな人達がおりましてから、毎日タバコの吸殻をあの朝鮮芝の中に放り込んどる。またマッチの吸殻をぽんとそこに捨てておる。
たまにはもうちり紙のまるくなる、なったごたっとば、芝の上に放からけとる。もうそしたらあの芝の美しさというのはないんですよ。だからその紙切れを拾うたり、又はその草を取ったり、毎日毎日私はそうして思うた。日々の改まりとはこういう事だなということです。自分の心もう昨日、草みんな取ってしもうとるけん、今日はなかち言うこつはなかち言うこと。もう下から生えとる。日々の日々の改まりというんですか。毎日毎日の改まりなんです。
同時にこれは自分の根から生えたんじゃなくてから、人が捨てて人の影響でですね心が汚れておる。いわゆるちり紙が捨ててあったり、タバコの吸殻が捨ててあったりがそれなんです。そういうことも平ぇ気でおるとです、もうちらかっとる事が当たり前のごつなってしもうとる。例えば磨くとか改まるとかと、日々の改まりが第一と仰る様な事は、そういう些細な事なんですよ。ですからそのう私共がね本当にそこが綺麗になる事を願っておかなければです。
いうなら自分の心が神に向かっておらなければです、そのタバコの吸殻一つも取り除くことは出来ん。生えておるその雑草すらも、もう朝鮮芝やら雑草やらも分らんごつなってしもうとる。とりわけ例えば昨日のご理解の中にありますようにね、こう芝の中に小さいその花が咲いてるですね。黄ない花を付けたり紫の花を付けてりする雑草があるんです。それを取りながら、いやこれは可愛らしいけんこのままおいとこかというごたる花すらあるです雑草の中に。自分の改まりということの中にです。
こら勿体なかけん取っておこうち言うごたるとがあるですやっぱり。そしてほんならよくよくそれを見てみると、やっぱり雑草は雑草じゃから取り除いておかんといけんということが分かるんですけれども、ちょっと改まるとに惜しいごたるとが。それがちょっとした花でも付けたりしとると可愛らしいぐらいに見えるところがあるんです。いつの昔のご理解の中にありましたですよね。目が出て手が出て足が出るようになると、怖くなると仰る。おたまじゃくしの事を言うておられる訳です。
目が出てまぁだねおたまじゃくしの時にはですね、可愛らしいです。それこそ水槽の中にでも泳がせたいごたる感じがするけれども、あれですね。目が出てから今度は足が出る、手が出るようになると、もう嫌らしゅうなってくるでしょうが。そして最後にはいわゆる、本当に怖いもの、これはまぁ私を中心にして下さった訳ですね。蛙は私がもう一番怖いものというごつなってるですから。その怖いものになって来るです。だから始めはこえらしかけんでぐらいのこっで。
そのまま摘んどっとらんとそれがいわゆる命取りになるです。これはまぁ昨夜のご理解ですけれどもです。そういう事すらもです。例えば自分の心は神に向かうておらんとです。神の光を見つめておらんとです。金光大神の生きられ方と言った様なものを、身に付けていこうとする姿勢がないとですね。せっかく理解申して下さっても、その理解はいわば水泡に帰してしまうね。
よしお話を頂いても、ただ耳が肥えるだけで実際の行いの上にもおかげの上にも、言うなら末々繁盛いたす事に繋がっていかんのです。どうでもひとつ末々繁盛いたす事、しかも氏子ありての神神ありての氏子上下立つように致すと仰る、信心共栄の信心の道を本気で究めさせて頂こう。為には今日私が申しましたようなところを、しっかりひとつ分らせて貰うて、おかげを頂いていかねばならんということですね。
どうぞ。